こんにちは、京都在住の学生スタッフいわきです。
突然ですが、学問を楽しむにはどうすればよいのでしょうか。
私は高校時代に強烈な体験をしているのでそのお話をしたいと思います。
私は小中学生の時に「世界で起こっている事柄に対して共感や関心を持ち、自分は何をなすべきかを考え、そして実際に行動できる人間の育成を目指します。希望を持って未来のあるべき姿を思い描く力、思い描いた未来に対して今できることを行動に移す力。この学校を巣立つ子どもたちが、その両方の力を持って新しい社会を創っていく人間になることを願っています」という理念を掲げた学校に通っていました。
出会った担任の先生は師匠と呼べるような素晴らしい方でした。その先生の教え方はどんなものも起源から教え、物語仕立てにすること、そして、すべての事柄はつながっているということを意識していました。様々な課題や問題にあたったとき、似たような事例はないか、今までの歴史から学ぶことはないかと考えさせるような授業だったことを覚えています。定期試験はなく、テストと言えば習熟度を計る確認テストだけでした。人間にとって一つ一つ起源から段階を踏んで教わっていくことは理にかなっていると思います。すべての物事の背景を意識し、世界はどのように成り立っているのかということを教えてくださいました。学習の成果は数値による成績ではなく、現状と改善点、輝いていた点を文章と言葉で伝えられていました。
中学3年の時この学校から転校しましたが、この時もクラスメイトと担任教師に恵まれ、学問を楽しんでいました。
高校に入学しました。進学校の一つとされる学校でした。そこでの学びは考えて深めることや対話することが一切ないものでした。先生は自分の専門分野を魅力的に語ってくださるのですが、クラスメイトの大半がそれについて行かなかったのです。
頭の中が大学受験でいっぱいいっぱいになっていたのでしょう。先生を軽蔑する雰囲気や受験勉強ばかり気になる人、受験勉強から逃避したくてオンラインゲームに没頭する人などいろいろありました。私はテストの点数は関係なく、学問を楽しみ、自分の意見を確立しようとして努力しましたが、対話がないので、意見を表明する場もなく、卒業前には自分の意見をまとめて発表できなくなっていたのです。これは怖いことです。意図的か無意識的か知りませんが、自分の考えや自分の意見などを抑圧してしまう世界がこの世の中には存在すると実感しました。
さて、学問が成立してきた歴史をさかのぼれば、人間の好奇心から生まれたものが大半だと思います。学問は本来、楽しんで取り組むことができるはずです。物事を起源から考え、起こっている事象の背景を捉えようと努めることが面白さ、興味深さ、楽しさにつながります。
しかし、受験勉強に必要な知識の詰め込みは学問を楽しむような余裕がありません。受験をするときには仕方がないのかもしれませんが、本来、学問は人生を豊かにし、楽しむためのものであるという認識を伝えていこうと考えています。考えることや学ぶこと、想像することや創造することは人間が生まれたときから「やりたい」と考えていることです。それをいかにして児童生徒の中から引き出すかということが私の努めていることです。
いわきゆうだい/ゆうだい先生・いわきくん)
ちなみに、この写真はチコンヂ山古墳です。
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